年表

戦前から戦後においてエポックメイキングとなった団地を表にまとめてみました。

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日本初の団地は?

 ここまで日本住宅公団の設立まで振り返ってきましたが、住宅公団の供給住宅 が初めての団地というわけではなく、公団設立以前にもすでに団地と呼んでいい集合住宅が存在しています。

 ではどこの団地が日本初かということですが、これがなかなか難しく、現在認識されているような「団地」が一夜城の如く、 突然現れたわけではなくて、団地を構成する様々な要素が少しずつ積み重なって現在の団地と呼ばれる集合住宅になるに至っています。そのあたり徐々に団地が形作られる過程を前項のグラフで表していますので、参照してみてください。
 とは言え、なんらかの「発祥の地」を定めたいのは人の常というもの。前項のグラフの中から耐火造アパートでいくつか候補を絞って考察してみます。 

・軍艦島(端島)坑員住宅
日本初のRC造の集合住宅。団地=コンクリの箱というイメージは強いと思うので、ここはやはり候補の一つと なるでしょう。単一棟なので、団地と呼ぶには弱いかもしれませんが、耐火造の積層住宅ができたという事実は集合住宅史のにおいて大きいと思います。

・同潤会アパート
戦前の同潤会アパートおよび東京、大阪等の市営アパートは耐火造でなおかつ複数棟からなる集合住宅なので、現代の団地とかなり近いイメージと言えるでしょう。ただこれらの住宅が「団地」と呼ばれた事は聞いたことがありません。この時代にはまだ団地という言葉がなかった事もあるでしょうが、住戸設計としての標準化がなされていないのも要因かと思われます。

・公団金岡団地
団地という名称が「公団の住宅地」という意味なら、公団初の金岡団地がすなわち日本初の団地となるのですが、どうやら違う由来のようです。後述します。

・公団香里団地
日本住宅公団発足後にできた金岡団地をはじめとするいくつかの団地は、戦前の同潤会アパートや公営アパートと同じく、生活関連施設が周囲の市街地に依存したものなので、個人的には郊外に「街」としても機能を備えた所謂”ニュータウン的”なものが、団地と考えていました。中でも公団香里団地は戸数の規模から言っても日本初に相応しいものかと思われます。しかし前述の市街地依存型の団地は大規模団地ブーム以降も脈々と造られ続けていて、これもやはり団地と呼ばれているので、この定義はいささか狭義過ぎるかもしれません。

・都営高輪アパート
 戦災による住宅消失、復員や引き揚げによる世帯の増加による深刻な住宅不足により、急速かつ大量の住宅供給が急務となりました。そんな中ある実験的なプロジェクトが動き出しました。課題は住宅の不燃化とスピーディで一戸でも多くの大量の供給体制。不燃化については戦前の同潤会アパート等で実績があるのでこれを用い、供給体制については住戸の標準化という手法で設計の効率化が計るという試みがなされました。これが都営高輪アパート誕生の背景です。住戸の標準化(標準設計)とは、間取り等をいくつかのタイプで統一する手法で(後の2DK等)、これにより住棟設計=耐火造、住棟配置設計=複数棟の配置、住戸設計=標準設計の採用と団地を構成する3点セットが揃ったわけです。
 ただ高輪アパートの場合、ほんの数棟レベルなので住棟配置の観点からは弱く、そういった意味では近隣住区論を取り入れた配置設計の大阪の古市中団地が日本初の完全な団地と言うべきかもしれません。しかしいくつかの文献を紐解いてみると、やはり高輪アパートは別格というか、特別な敬意をもって扱われているように思えます。戦前の軍艦アパートなど多くの鉄筋住宅が建てられている大阪市でも、戦後の小宮住宅を「高輪アパートをモデルとした戦後初の鉄筋住宅」として大きく扱っています。
 というわけで団地百景的にも都営高輪アパートを「日本初の団地」として推したいと思います。
以下「日本住宅公団十年史」より抜粋。


 最初の不燃住宅の建設の機会は昭和21年にすでに訪れた。戦後復興院総裁の阿部美樹志氏はこれについて非常に強い関心を持っていた。たまたま高輪の高松宮邸の一部がその用途に充てるため提供された。それは東京都の公営住宅として建設されることとなり、遂に昭和23年にいたって2棟48戸の住宅が、戦後初めての鉄筋コンクリートアパートとして竣工をみるにいたった。
 工事は続行され、やがて9棟221戸の団地が完成したのだった。思えばこれこそが今日の住宅公団の団地アパートのそもそものプロトタイプであった。それは今日からみればささやかな団地であるに過ぎない。しかし、そこに示された形は「団地」であった。 つまりアパートの棟が共通の庭を囲み、コミュニティとしての形を備えていたという点で、今日につながる意味を持っている。

「団地」という名称について

 一般的に「団地」という言葉が世間に浸透し始めたのは、住宅公団が発足して数年後の所謂「団地ブーム」の頃からと言われてますが、関係各所ではすでに使われていたようです。「日本住宅公団年報」昭和30年度版の中で「○○団地」と明記された写真も見受けられるので、公団は当初から商品名として団地を使っていたと思われます。また公団発足前の昭和20年代の公営住宅の年報の中でも耐火造住宅に対して「団地」という言葉が使われていますが、当時の団地の銘板や案内板を見る限りでは「○○住宅」とか「○○アパート」という記述になっているので、商品名として「団地」が使われたかどうかは定かではありません。(団地ブーム以降に公営住宅も通称として「○○団地」と名乗っている例は結構あります。)

 さて、では「団地」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかということですが、「昭和住宅物語(藤森 照信著)」の中に興味深い記述があります。元日本住宅公団設計課の本城和彦氏によると、すでに住宅営団時代には内部で団地という言葉が使われていて、「集団地住宅」もしくは「集団住宅地」という意味合いで使われていたとの事。(氏によるとドイツ語のジードルンクからきているのではないかとの事)住宅営団の事業は同潤会アパートの管理以外では、戸建て住宅の新規分譲などで中層耐火造住宅の建設は行っていないので、あるいは戸建て住宅に対して団地という言葉を使っていたのかもしれません。(あるいは同潤会アパートに対して?)

 現在住宅団地においては、公営公団を発祥とする積層タイプの耐火造住宅アパート群を意味するものと、地方などでよく見られる戸建て住宅群を意味するものがありますが、ひょっとしたら、この「戸建て住宅群の団地」は住宅営団を発祥として、公営公団の団地とは別系統で現代にいたるまで脈々と続いているのではないか?、、、などと想像をかきたてられてしまいます。(余談でした)



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