日本住宅公団の登場

 戦後10年が経ち、深刻な住宅難の問題は全国各地の公営住宅の建設・供給によって、 徐々に解消されつつありました。しかし朝鮮戦争による好況は都市部への人口流入を促し、行政区画間内での住宅計画を困難とし、 自治体間を横断するような大規模な住宅計画が待望される状況となってきました。
 そんな折り、当時の鳩山内閣は”都市サラリーマン層のために住宅問題の解決に取り組む”という姿勢をアピールすべく、 国の直営の住宅建設機関の創設に動いたのでした。こうして昭和30年7月8日日本住宅公団法が成立し、同年7月25日に日本住宅公団が発足したのです。

 この住宅公団はかつての同潤会や住宅営団のような国の外郭団体ではありますが、直接的なつながりはなく、その目指したものは先に述べた行政区画の枠を超えた広域計画による住宅建設を行うこと、政府民間の資金を導入して防火住宅の建設を行うこと、大規模な宅地開発を行うこととされました。 
 具体的な事業内容は以下の通りです。 
  1. 住宅の建設
    • 賃貸住宅の建設・管理
    • 分譲住宅の建設・譲渡
  2. 施設の建設
    • 公団住宅に住む人の利便を図るための店舗・託児所等の建設・賃貸/譲渡
    • 市街地住宅施設の建設・譲渡(S32年より開始)
  3. 宅地造成
    • 土地整理区画事業を行って開発された宅地を賃貸または分譲

 昭和31年4月金岡団地入居開始、5月稲毛団地分譲開始を皮切りに事業はスタートし、住宅都市整備公団、都市基盤整備公団の改組を経て、現在の都市再生機構へ至ることとなります。

生活システムの改革

 こうして誕生した公団住宅ですが、上流階級向けは公庫住宅、中産階級向けは公団住宅、低所得者層向けは公営住宅という当時の政府の方針により、公営住宅よりも高い家賃が設定されてしまいました。とはいえ家賃だけ高くて中身はこれまでの公営住宅と同じような箱モノでは差別化できないので、いくつかのセールスポイントを設けて「サラリーマン層の憧れの住宅」としてのアピールを目指しました。
 DKスタイル
 一番大きなセールスポイントはやはり食寝分離でしょう。食寝分離が当たり前の 今日ではなかなかイメージしづらいですが、当時の日本の住宅の生活様式は、ちゃぶ台のある六畳間で食事をし、ちゃぶ台を片付けて布団を敷いて寝るというパターンが一般的で、それを食事室で食事をとり、寝室で寝るというスタイルを持ち込んだのでした。
 これはすでに戦中に当時の西山卯三氏によって発案されていたのですが、戦時下においては実現せず、戦後吉武研究室による 51Cプランとして公営住宅で初めて採用されていたものを住宅公団も採用し、Dining(食堂)Kitchen(台所)というモダンな名称で売り出したのでした。
 また当時の公団は各家庭のダイニングキッチンにテーブルを用意したそうです。当時は洋風家具はほとんど出回っておらず、非常に高価だったこともあり、また新しい生活様式になれない人たちは、おそらくダイニングキッチンにちゃぶ台やこたつを持ち込んでいたでしょう。それが最初からテーブルが備え付けられていたなら、じゃぁ使ってみようかという気になり、どうせなら洋風の食生活もしてみようという気になり、その生活スタイルがまた評判を呼び、のちの団地ブームへとつながったのかもしれません。そしてこの食生活の変化が日本人の体格を著しく向上させ、(生活習慣病等の弊害もありますが)スポーツ等で世界に通づるようになったのかも…などと想像してしまいます。(余談でした)


 ステンレス流し台
 台所においては、これまでのジントギと呼ばれる人造石の研ぎ出しの流し台が主流でしたが、当時の加納総裁が「キッチンを魅力的にせよ」という熱意の基、さまざまな素材がテストされ最終的にステンレスのタイプが晴海団地において初めて採用されました。 ステンレスは非常に高価で加工も困難だったのですが、大量生産にこぎつけた経緯は「プロジェクトX 挑戦者たち Vol.10 妻へ贈ったダイニングキッチン」(DVD)で詳しく紹介されています。

 浴室・シリンダー錠・水洗トイレ
 戦後10年経ち「もはや戦後ではない」と言われたものの、まだまだ住宅設備は貧困で、浴室や便所は共同というのが当たり前でした。入浴に関しては銭湯の利用が一般的で、戸建て住宅でさえ、浴室があっても薪風呂だった時代、公団住宅において全戸にガス風呂を設けたのも先進的な試みでした。当初は吸排気が室内のものが採用されていましたが、不完全燃焼や酸欠などの問題により、BF式という吸排気が室外のタイプが採用されるようになります。
 トイレに関してもダイニングキッチンに呼応するかのように、割と早い時期から洋風水洗トイレが採用されています。

 一方錠前についても、当時多く使われていたのが函鍵タイプのもので、まだほとんど普及していたかったシリンダー錠を採用したのも新しい試みでした。現在でも下町のあたりを歩いていると、扉も窓も開け放ってセキュリティもなにもないような古い家屋が建ち並んでいる光景をよく見ますが、公団登場前の住宅はこのような形が一般的で、公団団地をはじめとする集合住宅の普及が核家族化を進行させ、「隣の人は何する人ぞ」という状況を生み出し、その副産物としてセキュリティを高めるという概念も必然的に生まれてきたのだと思います。  
 また入居した際に鍵を受け取る、という行為は「やっとこの部屋の主になれた」というセレモニーの役割をあるいは担っていたのかもしれません。



写真資料:日本住宅公団年報
当ページの写真は、UR都市機構の許可を得て掲載しています。



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