高度経済成長期
年代
集合住宅史
時代背景
 1955  日本住宅公団設立  
 1957  住宅建設の5カ年計画
 千里ニュータウン着工
 
 1960  新住宅建設の5カ年計画  国民所得倍増計画
 1963  新住宅市街地開発法
 第1次マンションブーム
 
 1964    東京オリンピック
 新幹線開通
 1966  第1期住宅建設5カ年計画  
 1967  面開発型市街地住宅の登場  
 1970  千里ニュータウン完成  日本万国博覧会(大阪)
 1971  第2期住宅建設5カ年計画  
 1972    日本列島改造論
 1973  広島基町高層アパート  第1次オイルショック


住宅団地の大規模化・郊外化

苦肉の策から生まれたニュータウン
 終戦後の住宅難は徐々に解消されつつありましたが、高度経済成長期の到来によって再び大都市への人口集中が起こり、それは極度の住宅難を招き、都市部およびその周辺部は劣悪な住宅が乱開発される結果となりました。そしてこうした状況を打開すべく計画的な都市計画が早急に叫ばれるようになりました。

 当時の住宅公団はこの命題を背負ってはいましたが、まだまだ供給能力が弱く、30年代初期においては都市部の 10km~20km圏内でプレイロットや集会所のみの市街地依存型の小規模団地を造るにとどまっていました。公団は初年度2万戸供給というノルマを課していたのですが、土地取得の問題によりこの目標の達成は非常に困難な状況となっていたため都心部を諦め、千葉県柏市に約1000千戸の住宅を建設するという強行策にでたのです。
 市街地の団地なら周辺部の施設が利用できたのですが、都心から遠く離れた郊外地には何もなく、 マーケット、店舗、診療所、郵便局、市役所出張所等、すなわち「街」そのものを公団が建設する必要がありました。 このような事例は過去には名古屋の千種台団地でショッピングセンター付きの団地が建設されたぐらいの暗中模索の状況で、また整備されていない輸送路は工事を難航させ、32年末、「光ヶ丘」と名付けられた団地はようやく竣工にこぎつけることができたのです。

 ようやく完成したとはいえ、常磐線南柏駅から徒歩20分の陸の孤島に果たして入居希望者がいるのか。。。公団は 職員はもとより東京支所長までもが街頭でパンフレットを配っていたそうです。
 そしてもっとも危惧していた募集当日。フタを開けてみれば、なんと22倍の応募がありました。入居後の反応も悪くなく、通勤が不便であるにもかかわらず、 自然が身近な環境は主婦や子供に好評で、次第に団地内サービスも充実して、またコミュニティも形成されつつあり、 こうして苦肉の策として生まれたニュータウンは大きな成功を収めたのでした。(まさにプロジェクトXですね)







 この経験に自信を得た公団は香里団地、ひばりヶ丘団地、常盤平団地等次々と大規模団地を着手し、30年代中期以降の郊外型大団地主義へ移行していくこととなり、その後新住宅市街地開発法(ニュータウン法)が制定され、地方自治体や民間をも巻き込んだ計画的な大規模ニュータウンの開発へと発展していくこととなります。  
 
 
 

住宅の産業化・商品化

 これまで供給されてきた住宅は公団・公営等の公的供給機関の賃貸住宅でしたが、公団が発足した時期から民間の企業が住宅供給の分野に参入してきて、所謂”住宅産業”というものが確立していきます。
 集合住宅についても、民間の産業化の対象となり、マンションと呼ばれるような分譲の集合住宅も登場してきます。また、公的住宅も分譲形式が増えていく等、住宅そのものが商品化されてゆくのが高度成長期の特徴です。

高層集合住宅団地の建設

 日本における高層集合住宅の草分けは軍艦島の坑員住宅になりますが、エポックメイキングとなったのは公団晴海高層アパート(1957)と言えるでしょう。フランスの建築家ル・コルビュジェによる集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」の影響を受けたこのアパートは、メガスタラクチャーの採用等、後の高層集合住宅に大きな影響を与えることとなります。
 晴海以降、昭和30年代は一部の市街地住宅が高層化されただけでしたが、昭和40年代にはいると、公団においては高層住宅事業予算の認可から徐々に高層住棟が登場してきました。また郊外型の大規模団地住宅は住宅難も解消されて、徐々に衰退してきましたが 代わって都心部の面開発型の市街地住宅(→公団住宅住棟図鑑参照)が高層住宅として登場し、郊外型に代わって全盛時代を迎えることとなります。

写真資料:日本住宅公団年報
当ページの写真は、UR都市機構の許可を得て掲載しています。



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