オイルショック以降の時代
 昭和30年代初頭から続いてきた都市への急速な人口集中は昭和48年(1973)の第一次石油ショック頃から終息し、住宅数が世帯数を上回るという現象が現れてきます。そしてこれを契機に、今までのような大量需要に対応するための大量供給というスタンスに変化が見られるようにもなります。高度成長期に多く建てられた中層住宅団地は、とにかく多くの人を”つめこむ”という観点からは非常に合理的だったのですが、そのためマッチ箱型の住宅が南面を向いてずらっと規則的に並ぶという、画一性が批判の対象となったのです。このような団地を外国人が「うさぎ小屋」と言ったのは有名な話ですね。  
 安定成長期に入ったオイルショック以降の団地建設は、量から質の追求へと変化してゆき、現在に至るまでいくつかの流れを生み出してゆきます。
年代
集合住宅史
時代背景
 1973  広島基町高層アパート  第1次オイルショック
 1974  第3期住宅建設5カ年計画  
 1976  茨城県営水戸六番池団地  
 1981  日本住宅公団から住宅都市整備公団へ改組  
 1983  HOPE計画(地域住宅計画)策定事業  
 1985  ユーコート(コーポラティブ方式-京都)  


低層住宅の復活

  質の追求という点において、まず日本古来からある長屋や町屋が見直す動きが現れ、低層住宅が復活してきます。  低層住宅自体はすでにテラスハウスという形で存在していたのですが、この時期登場したテラスハウスはデザインを工夫することにより、40〜80%と中層住宅団地並の容積率を実現しています。また共用庭を持っているという事もかつてのテラスハウスと異なる点でしょう。
 このような都市型のテラスハウスをタウンハウスとも呼ばれます。共用庭を持つ同じシステムの郊外型住宅がアメリカにあり、やはりタウンハウスと呼ばれており、その影響を受けた日本の住宅が呼称もあやかったと思われます。 茨城県水戸市に昭和51年(1976)に初めて登場した県営六番池団地は今までの中層住宅とは一線を画するもので、当時多くの地方自治体の関係者が見学に訪れたそうです。   

地域性の重視

 オイルショック以降、一時代を築いた低層住宅ですが、時代が昭和から平成へと移り、バブル経済時代ともなると、都市部では容積率の高い住宅(100%以上)が求められるようになり、次第につくられなくなっていきます。
 一方地方では、土地高騰のあおりもそれほど受けず、なおかつタウンハウスのデザインの自由度の高さが、地域の住宅文化、住宅事情に即したものに対応できたため、現在に至るまで根付いていきました。  中層住宅団地の箱形の均一配置がもし全国各地に広まっていたら、全国どこに行っても同じ風景になっていたでしょうね。(といっても、際だって個性的な集合住宅団地というのは、まだないようですが。。)  

居住者参加方式の導入

 住宅の供給媒体というと、公団、公営などの公的機関や民間企業だったのが、コーポラティブ方式という家を建てたいと思う人々が集まり、事業計画をたてて協同で集合住宅を建てていく方法も行われるようになりました。住まい手が立案設計してゆくものなので、当然それぞれの住戸が個性的なものとなり、住棟だけでなく、各住戸においてもデザインがなされるという動きがでてきたのです。




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